昭和42年10月26日 夜の御理解
                          


御祈念前に末永さんと話した事でしたけれども、今日は内殿あたりが御神灯だけではなくて、他の正面もつけておった、それはもうキラキラと、中の御簾が赤と金に光ってそれは美しいです。だからもう月次祭の時は勿論それがいるけれど、普通の御祈念の時にはかえって御祈念がしにくいとじゃなかろうか、こっちから拝んで見てから、そして、見たりつけてみたりしてから見たんです。やはり、ちょっと薄暗いほうが内殿はこう奥深い感じがしたんです、また心が静まったような感じなんです。
御広前のほうだけ電気をつけて、まあ、してみたんです。まだ、これがいいと言うものがなかなか定まりませんから、ここの御広前に一番ふさわしい、まあ一番良い気分の良い例えば調度品の置き方一つでもその工夫がまだ必要な時である、不思議なんですよ、ここにこんな物がおいてとこうはじめの間は思いよっても、それが二ヶ月、三ヶ月する内にもうなれてしまって、それが気がつかなくなってくるんですよ。
だから、始めの間が大事、ここにこんな物をおいてという時にもうすぐ置き換えてもっと良い場所に置き換えるとか、正面でもどこをつけたら一番効果的で、また、御広前らしいか、信心の稽古場らしいかと、いうこといろいろ工夫をするんですね。
ついこの頃までこんな丸い雪洞(ぼんぼり)がついておったのは東脇殿に持ってきましたが、なかなかいいですね、あそこに気分が非常に、そして、お広前をこういうふうに照明をしましたら電気も少なくて、これが一番効果的であろうごたるけれども、より良いまだ方法があるならそれにやっぱ改めなければならない、そう言う、私は工夫がいるなあと言うて、まあ、末永さんと話したことでございますけれどね。
お互いにしてもそうですよ、ここにこげなんふうなものがおいておったらおかしい、始めはおかしかったけれどもしまいに慣れてしまう、これが恐いんですね、だから初めてきた人はこげんところにこげなん物を置いて見苦しいと、こう、不快な感じを与えましょう。信心も同じ事、信心は日々の改まりが第一と仰るから、もういつも、もういつも、もう、その改まらせて頂く事にですね、もうちょっと心掛ければすぐ出来る、改まりはいくらもあるという事です。もうこれは私の癖じゃから、これはもう私のもち流だからといわずにですね、これが人に不快な考え方を与えるものであるとするならですね、それはもう改めて行かな行かんから、そこんところをですね、お互い、心の通じ合う人達がやはり必要であって、あなた、あそこがいかんですばい、ここはこう改めたほうがいいですよとお互いに反省しおうたり言いあえれる仲の者をつくっておくと言うと、また同時に自分で気がついたらそこを改めて行くという事が私は。
私は今日は神様だけしかご存知ない、自分だけしか分からないといったような大きな改まりに取り組むことも去る事ですけれども、やはり一つの認識が必要なんです、ね、御広前でも、例えばそう言うような照明演出といったような物が、例えば拝むに拝み良かったり、心が落ち着いたりという事になるでしょうが、だから、それは心掛けなければいけないと思うんです、これは部屋の調度品一つでも同じ事です、ここにおいておって感じがいいか悪いかと、悪いと思うたら本当に速やかに取り除いてそこんところをよりよいふうに工夫して行くと小さい部屋でも住みごこちの良い、誰が来ても感じの良い事になってくるのですから、ね。
ですから、あの、ここにこんなものば張ってからと思うような物が自分でもある時にはすぐ外すなり、せにゃいかんですね、それが、その、自分が慣れてしまうとですね、そう言う例えば下品な、げさくな、例えば、であっても部屋がそれであるとですね、もうそこの中に住んでおる人のその人格やら教養までも疑われるような事になってくるんですよ、ね、一つの部屋に入ればその人のその中に住んでおる人の例えば人格が感じられるぐらいな工夫が必要だという事ですね。信心も同じ事。
私はいつもちょいちょい考える、今晩もそれをつくづく痛感したんですけれど、今日は皆と一緒にお食事をさせてもらった、今日はお白湯がいくつもこうでけておった、お粥さんであった。若先生だけが細か鍋に湯豆腐を作ってから一人で頂いた。もうこの人はだいたいが非常に熱い熱いが好きなん、もう夏でも熱いなふうふう食べるのが好きなん子供の時から。だから、それを見逃しておるのですけれども、ね、自分もそれを認めておられると思っておるのですけれどもです、初めて例えば誰かが来た時に、いやぁ、歯が悪いとはお爺ちゃまもお婆ちゃま、親先生もこの頃歯が悪いといいなさるとに若先生だけが湯豆腐の柔らかとば食べよる、これでは周囲が許すはずがないです。
ただ若先生だから言い切らんはずだけのこと、同時に今度はこまいもんも言いきらんごつなる、妹や弟やらが、よかなぁ兄ちゃんだんと、こういうところなん、そして、俺も兄ちゃんになったらどのみちあげなんふうにしようと思いよる、内にはそう言う癖があるんですよ、豊美なんかがそうなんです、ですから、その人が徳を受けてですね、本当に親先生がこのような物が好きだから、内の親先生はこれが好きだから、わざわざ特別なこんだてをしてくれりゃまた別ですよ、けれども、そういう、今日は何もなかならお母さん僕も熱いおつゆをつくってちょうだいと、これならまだいいですよ、他のお采もいくもあるのに、自分だけが小さい、いわば、その湯豆腐鍋でですね、自分だけが湯豆腐を炊いて食べておる、おじいちゃん頂きなさいとも思わなければ、お父さん一つどうですかとも言わない、これではね、食べたいから言うんじゃないけれどもですね、(笑い)。
これではです、本当は世間に通用しないのですよ、若先生じゃろうかとこういう、それはもう皆が認めておるからですね、なんでもないようあるけれども、こういう事を改めよと思うたらすぐ改められる事、それはもう影響が素晴らしい、とにかくたくさんあるんですよ、今言う子供達の面というのやらがですね、それを思わないはずがないです、子供達が、大きいなったらよかな、我がよかごつしてよかなぁちいうふうなものしか、ね、そこんところを今朝から頂きますように責任という事においてですね。
例えば今ここで、なら若先生なら若先生の責任として、例えばここで修行生なら修行生の例えば末永さんとか、久富先生とか、広子先生どんの、ここでは、ここでの修行生としての責任においてです、これだけはなさらなければと言うものが私はあると思うんです。それがです、誰もここでは言いきらないから、それが、そう思いよるとがとがいつのまにかそれがのざりになって行くことでは修行が修行にならないって私は、ね。
ですから、それぞれの、はぁ、ここの役目だけはこれだけは私の責任に、例えばこれは昨日の若先生に博敏先生から来ておる便りの最後に書いてあった、そのことなんですね、責任を持つとか、責任を取る、責任を持つように、責任を感じるようになったり、もうきついほうへきついほうへという事をして行けばよいと言うようなことが最後に書いてございました、ね。
それを、今朝の私、御理解に皆さんに聞いてもらったんですけれども、私、新聞を一緒に同封して送っておったらしいです、私が一日にここの報告祭の時に挨拶をしたそれをそのまま一面の記事になっておる、それを見て味わい深いものとして読ませてもらったと言うような意味の事が、その先生の便りの中に書いてあった。どこを味わい深く私は感じられただろうかとこう思って、もう一遍読み直してみた、別にどこって味わう、結局私の話ですから大したことないですけれども、はぁーここんところが違うんだなぁ、ここんところを味おうて下さったんじゃなかろうかと思うところがあった、と言うのはですね、例えば十七年間に皆が祈りに祈り、願いに願って、いわば来た、またそれがそのまま神様の願いでもあった、そのことが成就してみなさんおめでとうと言うところがありますよ、これが普通で言うなら私が一生懸命お願いし続けたこと、私が一生懸命思うてきたことが、ここにこう言うふうに成就してと普通は言うところでしょう、ね、まるきり、例えばなるもならないも信者の責任、神様の責任のように、責任を信者と神様に転嫁しておるような表現しておるところに私は味わいを感じられたのではなかろうかと思う、それでいてです、なら私が十七年間、ここの初代教会長としてのおかげを頂く私が、十七年間どう言うその責任において、どう言う修行したかという事なんですね。
それは、信者の願いであり、神様の願いであり、それがここに成就したと、私の願いが成就したと言うふうに表現してないところを、まだ今朝の御理解を頂きますとそこんところが詳しく述べてございますけれどもね、愛情深く頂かれたのはそこじゃなかろうかと、ね、例えて言うならば、ここで修行をしよる、もう本当に末永さんがこう一人で朝はじたばたしておるわけですよね、もう開けてもしまわなん、明かりもつけなん、御神飯もお供えせなん、御簾を上げんなんと、まあ、例えば時間ぎりぎりでも行った時にはもうそれこそわらわ、それなり、平田先生がこれは修行生の責任においてです、これだけはと感じたらですね、それを半分づつ手分けしたら楽な事だろ言うと、今朝なんか、もう、てごろろしてました、ね。
それをやはり時間内にしなければならん、一人でしなければならんからです、ね、大変です、それを銘々修行生は修行生としての責任においての真がなされて行く時にです、ね、その姿、なるほど、少しは眠いかもしれませんけれども、そこんところをきついほうへきついほうへと取って行く、ね、若先生だってもそうです、若先生は若先生としての責任においてです、またはこの長男の責任においてです、例えば食生活の上にでもです、そう言うわがまま、周囲が本当を言うたら許さない、それを自分ははじめの間は引っかかりよるけれども、最後にはもうそれが当たり前のごつなって来る、そすとわがままの先生だ、横柄な先生だということになって、それがおかげを頂けれるはずがない、ね、長男としての責任においてでもそう言うようなことはできない、と私は思うんですよ。
ですから、そう言うような例えばこうして言うてくれる人がある間はいい時ですよ、もう言うても聞かんち言うごたるならいいやしません、ね、ですから、本当に注意を受けたらそれをそうとすぐ実行に移させてもらう、直そうと思えばすぐ直せれること、それは例えば部屋の照明一つでもです、ね、ここをこう言う風につけたらこの部屋は生きると、これはいけない、次から次とです、良い方法、良い方法ととっていく一つの研究、一つの演出と言うようなものがです、必要である、先生は先生としての、いわゆる一つの演出がある、先生方は紋付袴をこうつけて、こうしておくことも、まあ、言うならば一つの演出である、ね。
ですから、なるほど紋付袴をつけるとそれなりに先生でも素晴らしく見える先生にならなければならない、ね、けれども、なら、私共がもう紋付はかまを取らせて頂いたらもうただの大坪さんといえるようになったんではやっぱりいけないわけですから、やはり紋付袴をいつもつけて、やはりそこに演出、言うなら演出をするわけなんです。
より良い手、より良い方法というものを、またより良いことを身につけ行くためにはです、改めようと思うたらすぐ改めれることならです、私は一つ一つ本当な応え、本当なものへなって行く、そう言う私は人間一つの構成の上においてもです、ね、人格いや、人格人格向上の上においてもです、もう本当に立派な人格者ですけれども、ちょっとした癖がですね、もう幻滅を感じられる癖を持っておる人があるんですよね、そう言うような例えば、ものが私共の上にあるかも知れん、だから、人からも注意を受けることを、歓迎しなければならない、自分も心掛けておかなければならないという事になります。
                            どうぞ。